スポーツに「しつけ」の役目を期待する親たち
原瀬瑞夫:増補いまスポーツで子どもが危ない,五月書房,1992。
第1章 少年スポーツが抱えている問題点,p.p36-38同名より転載
スポーツ活動が子どもの身心の発育・発達に欠かせないのはいうまでもありません。しかし,一方でスポーツは,常に
「両刃の剣」の危険を持っていることも否定できないのです。
現実にスポーツのマイナス効果や,その後遺症に苦しむ子どもの数は決して少なくありません。原因の一端は前章で
紹介しました。

本来スポーツは楽しいものでなくてはなりません。ところが何時の頃からでしょうか,とにも角にもチームが一丸となっ
て勝ちを目指してハードトレーニングをする。猛練習に耐える。そして,そのプロセスに価値があり,人間形成につなが
るという
日本独特のスポーツ観が,教育界をはじめ各界各層で積極的に支持されるようになりました。

しかしこのようなハードトレーニングは,時に教育の枠をはみ出し,「しごき」や「暴力」に発展する危険性を持つことに
注意しなければなりません。指導の行き過ぎからくる「体罰」下級生に対する上級生の「制裁=いじめ」などです。
もちろん,厳しいトレーニングを全く否定する積もりはありません。スポーツを通して自己を鍛える,苦しさに耐える,協
力しながら友情や思いやりを育てるといった訓練は,特に発育期の子どもにとって大切なことです。

ところが,
今のスポーツ教育の現場では,大人サイドの論理の一方的な押しつけが目立つ反面,子どもの人権に対す
る配慮や,創造性の育成がないがしろにされているような気がします。更に決定的に欠けているのは,子どものトレー
ニング方法に対する科学的なアプローチではないでしょうか。

スポーツによる人間形成論の気になるもう一つの側面は,スポーツを非行防止に役立てようとする大人側の意図です。
近代スポーツ発達の歴史のなかには,そのようなもくろみがあったのは確かなことです。
19世紀イギリスのパブリックスクールでは,フットボールが生徒の管理にとても有効な手だてであると証明してみせ
ました。問題児は,暴力のはけ口を学校に対してではなく,グラウンドの仲間たちに見出すよう仕向けられたのです。
このような子ども管理の方法はまた,そのときどきの権力・指導者による「国家的要請」としても利用されてきました。
わが国でも,戦前,戦中のスポーツ事情に,そのような「スポーツの本質」の一端を見ることができます。

私の住んでいる市のなかにも,地域単位でたくさんの子ども会があります。そこでは年間を通して多彩な催しものが
ありそれぞれに,子どもたちは楽しんでいるようにはみえます。
ところがある子ども会の指導者の話によると,そのクラブ結成の第一の目的は,子どもたちの非行防止だったと打ち
明けてくれました。子どもたちの間の「万引き」や「集団の恐喝」などに手をやいた大人たちのアイディアは
「スポーツをやらせる」
というもので,これが実に簡単に話がまとまったそうです。親たちももちろん大賛成で,特に問題をかかえている家庭,
子どもの世話に手がまわらない人たちにとっては,渡りに舟だったのです
。子どもたちに受け入れてもらえるような,
楽しい経験の場を作ろうとしたのではなく,子どもを管理する手段としてスポーツを利用した
のです。

ある高校運動部の監督のせりふです。
「奴を練習漬けにしておかないことには,何をしでかすか分かったもんじゃないんですよ。練習が終って家に帰り,晩
めしを喰えば,あとはバタンキューで寝ちまうでしょう。マスかくひまもないでしょうよ」
これなど極端な例かも知れませんが,ここまでくると,もはやスポーツとは到底いえるものではありません。

ボランティア活動でクラブを支えている,多くの大人たちの善意と情熱に水を差すつもりはさらさらないのですが,この
ようなクラブ活動からは,いつか子どもたちは逃げていくようになるでしょう。
子ども社会の変容をスポーツが救えるな
どとは到底考えられません。大人たちが,あいも変らぬスポーツ観を子どもたちに押しつけることは,時代錯誤もはな
はだしい
話で,やがて子どもたちから,完全にそっぽを向かれる日がやってくるでしょう。

このような状況のなかで,一部にせよ親が,わが子の管理権を放棄してしまっている場面にしばしばぶつかります。
                                                              <つづき